エゴには何を話しても意味がないと思い知る

ということを、古来、馬耳東風とか馬の耳に念仏とか言われてきたのかもしれません。
ここで言う「エゴ」とは、厳密な心理学用語ではなく、人が生まれてこの方培ってきた人格や記憶、感情の総体を指します。


ようやく悟ったと喜ぶべきかもしれませんが、今のところその気づきは孤独で、寂しいものです。
ただ、マスターとか呼ばれる人達は、その存在からの一言で、エゴに風穴を開けるくらいのことを平気でしそうですが・・・


勝手な想像ですが、イエスは、自分が磔刑に処され、死ぬほどの苦痛を感じながら「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という言葉で、自分の中の慈悲を喚起しようとしたのではないかと思いました。
エゴの猛威に今まさに殺されようとしていながらも、自分がそれを怒り、恨むことのないように、そうしたのではないかと思います。


大抵の人はきっと、自分で自分が何をしているのか分かっていないのではないかと思います。
僕もそうです。
それほどまで、過去や未来に「今」を侵食されてしまい、世間で起こる事件や災害を怖れ、無意識に生きることに慣れてしまっているのだと思います。


今回の台風もそうですし、ヨーロッパの財政危機、通り魔事件、竜巻・・・
当事者となってしまった人には災難ですが、それをテレビ越しに見ている人にとっても、それらは衝撃的です。
エゴはこれを見て、怖れ、生存を脅かされていると感じ、守りを固めます。
「今、ここ」では、自分に危害が及んでおらず、生命の危機を感じる要素がなくてもです。
そうした出来事は、日々エゴを揺さぶります。
不幸なことに、そうした出来事の当事者となった人は、その揺さぶりをもろに受け止めることになり、エゴの殻が壊れて、中身が表れ出ます。
そして、本来の自分を取り戻し、愛や勇気、剛毅さが表出します。
ときに苦難が、生命を輝かせるのは、このためなのかなと思います。


そしてまた「日常」が帰ってきて、決定的で継続的な内面的変化を経験しなかった人は、新たなエゴの殻で覆われていきます。
一時の生命の輝きはなりを潜めていきます。


意識的であること、今を生きること、気づいていること、客観視することはすべて、このエゴの殻を自分で壊していくことに繋がっています。
生命を輝かせ、自分で在るために、不幸を無駄にしないためにも、僕は継続的にエゴの殻を壊していきたいと、昨日思いました。