お金の本質について思うこと

お金と聞いて、何を思い浮べますか?
多分、一万円札とか千円札とか、普段何気なく使っている、財布に入っている物を思い浮べるんじゃないでしょうか?


でも、それはお金ではない。
お金のエネルギーの一形態だと思うんです。


と、最近考えています。


ちなみに一万円札の価格は40円。
独立行政法人国立印刷局が作って、それを日銀が1枚40円で買っている。
それを法律によって10,000円の価値を付けて市場に投入する。


例えば、今日ニンジンがいくらで売っていたか。
ニンジンの値段は日々変化します。
ニンジンの価値は市場に出回るニンジンの量と使う人の量で決まります。


通貨の価値も同じで、市場に出回る通貨の量と、それを使う人の量で決まる。
一万円札は10,000円の価値を保障されているけど、10,000円で買える物は日々変化している。


さて、通帳には1,000,000とか1,000,000,000とか数字でお金が表されます。
これもお金のエネルギーの一形態ですよね。
クレジットで買い物すると、貨幣に変換されることなく、この数字が動きます。
それで支払われたことになる。


例えば、この通帳の金額を、不正に増やすとどうなるか。
ちょっとパソコンを使って、銀行のデータベースをいじくれば出来ると思います。
そうすると、捕まります。
でも、株価とか為替とか、この「ちょっとパソコンを使って」やってますよね?
世の中にはそれで大金持ちになる人がいる。


別にそれが善い悪い、と言うわけじゃありません。
お金のエネルギーとは流動的で、ほんのちょっとのことで世の中を流れている。
まあ、今はそれが、お金のエネルギーを集積するために血道をあげてきた方々のシステムに流れているだけの話です。


例えば、何千万人の単位で、上記の、ちょっとパソコンをいじって通帳の金額を途方もなくあげると、この方々は困るでしょうね。
お金のエネルギーによって権威になった人たちなので。
こんなことを書いてこわいこわい。


でも、最近ある方に言われたのが、「お金はヒーラー」という言葉。
そこでハッとしました。
「通帳に貯まっているお金を見ると安心するでしょ?」
確かにそう。
資本主義の世の中に生まれて、自然にお金の存在を受け入れて暮らしている。
というか、経済というシステムによって生かされている僕は、それが破綻するまで、この価値観を否定はできません。
だから、通帳の数字を見て、安心する。


お金を手に入れるには、お金に執着することなく、また、お金を愛すること、と言われます。
お金のエネルギーは権威を作ることもあれば、誰かと分かち合うこともできる。
先日、とあるバザーで生まれた売り上げ30,000円は、そのままタイの子供の中学校で勉強する費用になる。
僕らの持っている30,000円にはまだそれくらいの力がある。
それは権威ではなく、なんて言うんだろう。


例えば、ただ1,000円をくれ、と言われて差し出すには気が引けるけど、それを使ってみんなで楽しいことをしようと思えば、惜しくはありません。
執着なく手放すことができる。
だって、それによって1,000円の何倍も、何十倍も、ことによっては価値変換できないくらいのものを味わうことができるのだから。
そして、そうゆうことに使えると思えば、お金を好きになることもできるような気がします。


僕にとってのタロットカードやゲーム機と同じように(笑)