自分の知性と感情について

久々に何か書こうと思いキーボードを叩いています。
いつも適当に思いついたことを書いているのですが、そうゆう内容にいつも自分で驚かされ、また気づかされています。
だから、僕が「nananaga」というある種の別人格から話を聞いているような感じになることがあります。
そうゆうのを、何かと繋がった、とか、どこからか降りてきた、とか、書きたいですが、全部自分なんだな、ということも分かっています。
書いた内容について、分かっている自分と、分かっていない自分がいる、というだけの話なような気がしています。


最近何か、全てが茶番劇のような気がしたことがあって、せせら笑っているわけではないですが、全て記憶のドラマの再放送だな、と思ってしまったことがありました。
性根がまだ皮肉屋なのかと、ちょっと自分で愕然としますが、そうなのでしょうがないです;
物事を達観することで洞察できる事柄と、感情とは無関係で、感情の方を素直に認められないことから、自然に冷静な洞察へと向かっているんでしょう。
それは決して、洞察力が優れている、という状態ではなくて、感情体と知性体のどちらを活性化させるかに偏りがあるということなのかもしれません。
自分が少し冷たい人間だな、と感じるのも、感情を受け取ったり、表に出したりすることに抵抗がある部分と関係あるだろうと思います。


何事も納得できないと動けない性分なので、という設定なので、書くことは確かめることでもあります。
こうして別人格でも何でも、無責任に書いて、そして確かめることで、僕自身は解放されています。
それを読んでもらえるかどうか、というより、たまたま来て読んでもらって、リアクションがあろうとなかろうと、影響を受け取ってもらえたら、それは自己犠牲とか献身とか奉仕とか呼べるんじゃなかろうかと思います。


こうして書いている間も、様々な感情が浮かんでは、思考のフリーズを招いたりしますが、このプロセス自体が僕にとってなくてはならないものだと感じています。


そんなこんなで、今年もよろしくお願いします。
あ、新年のあいさつになりました(笑)