神との対話 普及版(1)(2) ニール・ドナルドウォルシュ

神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について

神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について

神との対話 普及版〈2〉個人的な真実について

神との対話 普及版〈2〉個人的な真実について

この本には興味深いことがたくさん書いてありますが、中でも最近学んだことを書きたいと思います。
それは、「人は自分自身になるために生きている」ということです。
自分自身になる、とは不思議な表現です。
僕が現段階で理解したのは、こうゆうことだと思います。


人が、本当の意味で自分自身である、と言えるのは、自分の思考や感情を自分で選択している状態のときではないかと思います。
つまり、それ以外の思考や感情は、他人の期待に応えたり、他人の反応を恐れたりして出ている場合があるので、自分の物とは言えません。
そうすると、その人は自分自身ではない。誰かの思考や感情で生きている、ということになるのではないでしょうか。


「他人に反応して生じる思考や感情を選択している」のも自分なのだから、それも自分自身じゃないか、とも言えます。
意識して行っているのであればそうでしょう。
しかし、無意識にそれを行っているとしたら、その状態を果たして“自分自身で選択している”と言えるでしょうか?
選択させられている。操作されていると言っても過言ではないと思います。


この状態は人間関係の中でこそ見ることができます。
人と居るとき、意識的に自分の内面を見ていると、どれが反応で、どれが自分から出ているかを知ることができます。
そこで、どのような反応を選択するか。
例えば、相手が高慢な態度に出たとします。
それを見て、怒っている自分と、なぜこの人は自分に対して高慢な態度を取るのか、と考えている自分が居るとします。
考えている自分に集中すれば、怒りはどこかへ行ってしまうかもしれません。
また、考えている自分に集中して、相手の高慢な態度の原因を見抜けたとします。
それを指摘して、相手に伝えることもできるでしょう。
それは私を傷つけて怒らせた、と伝えれば相手も反省してくれるかもしれません。
更に、鏡の法則のことを考えると、なぜ今自分の目の前に高慢な態度を取る人が来たのだろう、と考えることもできます。
そこで、自分自身も、他の誰かに高慢な態度を取っていたことに気づくかもしれません。
もし、単に相手の高慢な態度に怒って反応するだけでは、得られなかった洞察がこの最初の選択で得られるかもしれない、ということです。
思考や感情を選択することは、自分自身を創造する行為だと言えるでしょう。


更に人は、生まれてから今まで様々な価値観を学んでいます。
その価値観によって、思考し判断していることも多いと思います。
では、その価値観はすべて今の自分に相応しいでしょうか?
その価値観で行動することは、快適でしょうか?
自分自身になる、とは現状にふさわしい価値観を選択する、という意味でもあると思います。
例えて言うと、学校の制服です。
もはや、足が伸びて、白ソックスがズボンの裾から見えている状態。
これがカッコいいかそうじゃないかは置いておいて、着ている本人だって快適ではないはずです。
またのところがキツキツなはずです。


自分自身になるためには、まず自分が快適である状態を内面に作り出すといいのではないでしょうか。
人と関わる前に、自分に相応しい価値観で生きることが大事だと思います。
自分の内面が快適であれば、思考や感情を選択することも、より簡単になると思います。


以上が、とりあえず、『神との対話』を読んで勉強になったことです。
また、何か理解したら、記事にしたいと思います^^