母や父(家)との関係性

ノートに走り書きしたことを、ちょっと編集して載せてみます^^


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僕が母の胎内から出たとき、それまで感じていた安心感から切り離された。
それはひどく不安な出来事だっただろう。そして、寂しく、冷たく、孤独な夜を経験したはずだ。
その感覚は今も家や母をどこかで求める感覚として残っているかもしれない。


成長すると、今度は家族の中で生存する道を模索し始める。
家族のルールを学び、泣き喚きながらも順応しようとする。
それでも母の胎内は恋しく、母につきっきりだっただろう。
勿論、このとき何の疑いもなく学んだ家族ルールも無意識的に今に影響を与えていそうだ。


そして、幼稚園や保育園に通い始める。
自立へのスタート。
母から離れていく旅路の始まり。
こう考えると、自立する、家を離れるということは第二の誕生と言えるかもしれない。


家に居れば、とりあえず安心感がある。母の胎内には及ばないが、衣食住が保障されているし、長年順応してきた家族ルールも生かせる。
しかし、自立をすれば外の社会ルールを学び直さなければいけない。
それが自分にそぐわないと感じるものなら、尚更、拒否反応があるだろう。
母の胎内も、家も、しかし、偽りの安心感でしかない。それはいつ崩れてもおかしくないものだ。


真実の安心とは、内なる神との繋がりの中で生きることだ。
現代社会は、神の存在を否定した。“ないもの”とした。そのせいで目の前にどれだけ証拠を突きつけられても、人は神の存在を認めようとしない。
自立とは、母や父(家)から神との関係への移行であり、神との関係の中で生きることだ、という真実は隠された。
その神とは、高次の自分であり、自分の体を形づくり、世界を形づくっていることも隠された。


教育とは最終的に、“神を知った”状態への移行を助けるはずのものだ。
僕が父に望んでいたこともそれだった。
自分の中の神と繋がって生きる実感を得たかった。
ただ、今の時代は、よくて神との繋がりを社会に出て体で覚えられたらラッキー、という感じだろう。
それを意識的に子供に教えられる親など、いまい。


それから、最近思うのは、神との繋がりは実家にいては実感しずらいんじゃないか?ということ。
一度、家から離れてみないと、本当に神に生かされていると感じるのは難しいかもしれない。
なぜなら実際は、父の収入で生かされているから。
直接的ではなく間接的な感覚がつきまとうのではないかと思う。
誰の介在も挟まずに、自分一人で直接世界と繋がる感覚は、独りで生きることの醍醐味かもしれない。